2011年7月19日火曜日

まとめ…それから次の行動へ

3月11日、14時46分。僕は新宿にある貸し音楽スタジオにいた。新しく出来た曲のデモ録音を終え、ほっと息をついた時だった。揺れを感じ、そしてすぐその揺れが普通の大きさじゃないことに気づいた。その後の行動は意外に冷静だった。三味線と財布を持って一旦外へ。落下物などに気をつけて安全な場所に出た。すぐに思い浮かんだのは、家に一人でいるはずの母のことだった。父の職場は比較的新しい建物らしく(実際は違った‥!)このくらいの揺れなら崩壊することはないだろう。でも、我が家はボロイ。倒壊することはないにしても‥。まだ揺れが続いてるなか家に電話をした。このときはまだつながった。母が出る。ものすごい揺れだが一応無事とのこと。
さて駅へ向かうと街はすでに大混乱。未曾有の、っていう感じだ。我が家へは3キロほどの道程なので、するすると人の間をすりぬけて帰路につく。

ああしてる間に、東日本沿岸部には津波が近づいてきてたんだな‥。



想像力 -

自分の身に起きたわけではないことを、自分の身に置き換える、理性的な想像力。それが他者と自分をつなぐ最も有効なツールだと、僕は思う。
ボランティアをするなんて、自己満足だと言う人がいる。偽善だと。まして自己犠牲などと。
確かに「利他」にはそれを補って余りある充実感が、満足がしばしば得られる。人間というものはその存在の構成上、主観の合意のない利他は有り得ない。だから、人間は皆、自分のために生きている、一部の冷笑主義者やペシミストはそう解釈するだろう。だけど、「主観の合意」は利己だろうか?人が喜ぶ姿を見て喜ばしく思うのは、人の幸せを願う心というものは、主観の利他的性能の副産物なんじゃないか?
いつも、いつも、想像できる自分でいたい。家を、仕事を、大切な人を失った、傷ついた心のことを。テレビでは連日、復興へ向かう明るいニュースが報道される。だけど、僕は想像したい。一番傷ついている人の気持ちをこそ。一番どん底にいる人々のことを、決して見落とさずにいたい。何にも出来ないかも知れないけれど。

独りきりのおじさんは家族と連絡がとれただろうか。耕して植えた苗は無事に根をおろしただろうか。半壊した家に、家族の笑顔は戻ったのだろうか。沈んだままの船や車は引き揚げられるんだろうか。その中に閉じ込められたままの人たちはどうなるのか。まだ見つからない何千という人々は、いつ家族のもとに帰れるんだろう。大切な人を失った人の心は、いつになれば癒されるんだろう。
これからこの国は、どうやってこの国難を乗り切るんだろう。

そして、僕には何が出来るんだろう。

今、やれることを、そして明日、出来るようになることを、ひとつずつ紡いでいこう。






今回お世話になったボランティアセンター 団体 人 ‥

・いわき市災害救援ボランティアセンター
http://www.iwaki-shakyo.com/saigaiborasen.html
0246-22-5501

・仙台市津波災害ボランティアセンター
http://www.ssvc.ne.jp/?p=1575
022-231-1326

今回の旅を全面的にコーディネートして下さった福島在住の知人、パンダさん(もちろん本名じゃないよ)このヒトがいなければここまでの経験は出来ませんでした。多謝。「パンダの旅]http://pandanotabi.blog89.fc2.com/ 震災直後から単独で復興活動に走り回ってたかたです。貴重な体験談や、がれきの中から助けたネコのお話なんかもありますよ。

それからもう有名な「スコップ団」blog.goo.ne.jp/cheapdust毎週末復興作業に奔走し続けている団体。参加者も急増しているらしいです。



さてさてパソコンが不調だったため書き上げるまでにずいぶん時間が空きましたが…、その間に岩手行きが決まりました。明日の夜から遠野へ行って参ります。半分下見に。それでまた来月、岩手から宮城に行こうかと。その件はまたこちらのブログで。


2011年7月18日月曜日

スコップ団後編 宮城最終日 この国の美と誠

前半少し飛ばしすぎた‥。

瓦礫の取り除きに夢中になってたが取り除かれた下は、もともと土かと思っていたがコンクリート地で、今度はこの10センチほど積もった土、海砂をスコップでひたすら掬い取る。
防塵マスクが息苦しい。ゴーグルもすぐくもる。持ってきた水ももうすぐなくなりそうだ‥。やばい。少ししゃがむ‥。
それでもふと室内の清掃をしてる団長のほうを見ると‥、床が‥!ピカピカ、とまではいかないけどすげーきれいになってる!あれなんて言う器具なんだろう、高圧の水が吹き出る洗浄器。あれで床をびゅびゅーっと。blog.goo.ne.jp/cheapdust/d/20110626

あとで聞いた話だけど今日の現場はかなりハードな方だったらしい。結局一日では完全に終わらなかった。でも、ここに住む家族が、あとは自分達でやれる、作業量的にも精神的にも、ここまでくればあとは自分達で頑張れる、そういうとこまで手伝えれば‥。

作業終了後、家の皆さんからご挨拶があった。こんなにきれいにしてくれるなんて思ってなかった、あとは家族で力をあわせてがんばります、そんなことをおっしゃってた。
実はもう、やはりこの家にはもう住まないことにしようと考えてたらしい。家族の中でも意見がわかれている様子で‥。確かにここはもう地盤も沈み、危険なことがわかってしまっている土地。回りですぐそばでたくさんの犠牲者が出た地域‥。せっかくきれいになったけれど、情や思い入れだけでは生活の場所を決められない、、。これからまだ、大小たくさんの苦悩や決断を迫られるんだろう。


さてそろそろ解散の時間。短い時間だったけどすごい有意義な一日になった。だんちょーや団スタッフの皆さんにもお世話になりました。一緒に作業に参加した人々も、境遇は様々だけどみんな復興に向けて、具体的な何かがしたくて集まった人ばかり。動いた分だけ、前に進めるような。誰かの背中を押せるような、具体的な何かを。
なんかすごいな。初めて会った人たちなのに。すぐに打ち解けられる。お互いに、お互いの姿勢に、素直に感心出来る。遠方からはるばる、とか。自分も被災者なのに、とか。

団のスタッフの方に、仙台駅まで車で送って頂けることになって、乗り合わせた車内で親しく話をした男性は、北海道から一人で来たらしい。今朝、フェリーで。宿は仙台のカプセルホテル。昨日僕らが泊まったとこだ(笑)被災地周辺はどこも宿がいっぱいで、なかなかとれないみたいですねと言うと、 ボランティアに来るんだから宿なんて粗末なもんでいいのに、市の体育館なんかで雑魚寝でもいいのになぁ、と言っていた。

こういうの、なんて言ったら良いか‥。


公に奉ずる精神。

ちょっとずつの自己犠牲を大勢分集めて、誰かのために動き、祈り、大きなことをなしとげようとする、その一人になろうとする、至誠。

この国にはそんな想いを持った人間がたくさんいて、この国難に立ち向かっている。過去の様々な困難、天災でも戦争でも、そうやって日本人は何度も立ち上がってきた。世界が驚くようなスピードで。



なんだろうこの気持ちは。なんか人助けのつもりで来たのに自分がエネルギーを貰ってばっかりだ。しかもこのブログどうやってまとめたらいいんだろうか。
いや別にまとめなくていいのか、、。またすぐ行くしな‥。またスコップ団にも参加させて貰おう。気温が上がって皆さん大変だろうな。僕は暑さ寒さには強いし体力には自信があるんだ。ペース配分だけ気をつけよう。
それから岩手にも行きたい。大好きな岩手。人手が足りないとこはまだたくさんあるんだろうな。報道されてないけど千葉や茨城も大変なんだろう。いろんな人に話をして、協力してくれる人を増やそう。また違う友達も誘ってみよう。
一人で出来ることは本当に小さなことだろうけど、この美しい国の、心ある人間の一人に僕はなりたい。







                                             もうちょっとつづく

2011年7月13日水曜日

スコップ団 出泥する暮らし 犬のお墓

6月25日土曜日、宮城3日目。今日は朝早くから仙台駅を出て岩沼という駅へ。そこからタクシーで10分位のコンビニへ。ここが集合場所。
「スコップ団」、知ってますか。今、宮城で昇り龍の民間復興支援団体。 blog.goo.ne.jp/cheapdust/d/20110626
大規模に被災した家屋の清掃、復元を独自の方法で行っている。毎週土日。ぜひチェック!↑

今日はそのスコップ団に参加する。

詳細に関してはスコップ団ブログの6/25の活動内容に詳しいが、大規模に損壊したおうちの瓦礫撤去、家財道具の運び出し、ドロのかき出し、清掃を行った。


海から数百メートルにあるお宅。昨日の現場より海岸線に近い。地震直後、津波警報が出たので貴重品などをもって避難所にご家族で移動したが、はじめはそんなにおおげさには考えてなかったそう。ところが帰宅すると、この被害‥。1階部分はほぼ海水に呑まれ、壁はなぎ倒され家具類は破壊されドロまみれに。そして、ここまでの被害を予測しなかったため室内に残してきたワンちゃんが‥。

はじめ現場を拝見した時、これは、、人の手でどうにかなるのか‥?と思うほど、ひどい状況だった。破壊しつくされた壁が、柱が、「家」を構成するすべてのものが、泥まみれになって敷地内を埋め尽くしている。

住人だけの力じゃどうにもならない。だから多くの人が、貴重品や思い出の品を運び出すことすら躊躇したりあきらめてしまう。中には業者に頼んで行ってもらったが、使える物や思い出のつまった大切なものまで全部捨てられてしまった、なんてこともあるらしい。他人にとっては、泥まみれのガラクタばかりに見えてしまうから。

だけどスコップ団は違う。運び出すのはガラクタなんかじゃない。全部大切な、かけがえのない日常そのものだ。むげに扱ったりしてはいけない。無遠慮にどかどか部屋にあがらない。どんなに泥まみれでも、ここはかつて、ここのご家族にとって心の安らぐ場所だったはず、そしてもしも叶うならまたここに住みたいと思って作業を依頼した、大切な場所だから。

黙々と、大きな木片や壊れたコンクリート片を運び出す。今日の参加者は30人くらいだろうか。ネットやテレビ、口コミで参加を希望して集まってきた方たちだ。地元の人も多いし僕らのように遠方からも来てる。
防塵マスク、防塵ゴーグル、二枚重ねた手袋にステンレスの入った長靴。安全のための装備が最高に活躍してる。

皆で手分けをして大きな遮蔽物が取り除かれると、室内への入り口が確保され、地面も見えてきた。いやこれは地面ではなく、もともとのコンクリート地に10センチほど積もった海砂だ。
だけど!みるみる瓦礫が取り除かれ、もとあったはずの空間が取り戻されてく!すごいな!大勢の力を合わせるとこんなことが出来るのか!僕は思わず手を止めしばしば感嘆せずにはいられなかった。元の家のカタチがどんどん見えてくる。
そしてそれにつれ、ここでの暮らしをうかがわせる品々が、あたりまえにあった日常のかけらが次々に出てきた。

ぬいぐるみ、スティッチの抱き枕、食器類、衣類、家族全員分の傘、本、野球ボール、無事だったお酒、写真‥。

それらを並べてご家族に取捨選別をしてもらう。僕は和装が好きなので、着物を何枚か拾い上げた時、手を止めずにはいられなかった。泥まみれだけど、どうしますかと聞くと、ああこれは誰々のいついつ買ったやつだねぇとご家族が言葉を交わし、だけどもうねぇと、首を横にふる。瓦礫の山の上に、たたんでのせた。



休憩の時、庭の片隅に即席で作られた、犬のお墓に手を合わせた。

2011年7月11日月曜日

仙台岡田サテライト 希望の苗 海をにらむ

花が咲いてる。
海水がなだれ込み濁流にのまれたはずの場所に、草花はなぜ無事に、いや無事かどうかは判らないけれど、瓦礫のわきで、なぜ花を咲かせられているんだろう。


宮城二日目。ゆうべは結局ホテルがとれず、サウナの仮眠室で横になったがあまり熟睡出来なかった。(ー_ー;)
今日は朝から仙台市津波被害ボランティアセンターに登録。仙台から電車で数駅の小鶴新田という所のスポーツ施設内にあるセンターだ。
こちらでも保険にはただでいれてくれるし装備もいろいろ貸してくれる。水や携帯食料、ビタミン剤までもらえる。いたれりつくせりだ。そんなとこに税金を使う必要がアルノカ?と少し思う。誰かの寄付なのかな。
ま、もらえるものはもらっておこう‥。

さて今日の現場は!

岡田という地区のお宅。津波で乱れた畑の清掃。瓦礫類の除去だ。
海からは400~500mくらいだろうか。このあたりの家々も、少なくとも1階部分は浸水、大破。大規模半壊から全壊の建物ばかりだ。田んぼの中にも車や水上バイク、木材や大きな何かのタンクが転がっている。
小雨が、降ったり止んだりのあいまいな天気の中、作業を開始する。海水がなめたあとの畑の土をやわらかく耕し直す。土に混じったガラスや石を取り除きながら。

ざくざく ざくざく  ざくざく ざくざく

耕したあとの土を整えて、苗を植えていく。サニーレタスと、モロヘイヤ。ちっちゃな、みどり色の芽が、点々と増えていく。とても単純に、感動的だ。



休憩は、半壊したおうちの1階部におじゃましてとる。柱以外、なにもなくなったがらんどうの1階で。この辺りはかろうじて水道から水が出る。下水道も一応復旧しているそうだ。
津波の被害が大きかった海抜の低い地域は、家屋が無事だったとしても、行政はもう住人に、出来れば住んで欲しくないらしい。だからかどうかは判らないけれど、そうゆう地域の上下水道の復旧は得てして遅れているそうだ。もちろんこんな大変な、そして悲しいことがあった場所に、そして”危険”なことが分かってしまった土地に引き続き住みたいとは思わない人も多い。
だけど、このおうちのかたは何とかしてこの家に住みたいそうだ。1階部がもうだめだとしても、2階部分をどうにか移築して、住みたい。
立派なおうちだったんだって。広い敷地内に3棟あって親子孫3代で暮らしてた。畑と田んぼがあって作業用の納屋もあった。写真をたくさん見せてくれた。いろんな話をしてくれた。してくれながら、だけどおばさんは元気で楽しそうだった。ご本人も、こんなにたくさん若いひとが来てくれて、今日はとても楽しかったと言ってくれた。震災後しばらくは国や市からなんの救援も無く、この辺りは見捨てられたのかと思っていたそうだ。ボランティアセンターも、実地調査でこの辺りにも何度も来たらしいが、無人の家ばかりで実情把握が上手く進まなかったらしい。

こういう齟齬が、無数にあるんだろう。


午後、予想外のことで作業が打ち切りになる。続報をチェックしてないので詳しいことはわからないけれどアリューシャン列島で(?)地震があったらしく日本列島にも津波が来る可能性があるとかで、センターから作業中止の連絡が。

非常に残念だ。海をにらむ。

更地にされた地平の、数百m先に見える海。海岸線の向こうの空は雲間が見え、歯抜けになった松林に陽を落としている。美しい空と、海だ。

最後におばさんからご挨拶があり、サニーレタスとモロヘイヤができあがったら食べに来てねと言ってくれた。自分の畑と思っていいからね、と。


さて、自転車でセンターまで帰る。岡田サテライトまで。アリューシャン列島から津波がわざわざ来るものか。来たらもてなしてやる。牛タンで。


さてバスと電車で仙台に戻ったわけだけど、今日の現場で知り合った、名古屋から来た二人と一緒に食事をすることに。栄で美容師やってるお二人。休みを利用して日帰りで来たんだって!アツイな。仙台駅付近で、牛タン屋に入る。出逢いを記念して、そして宮城の復興を祈念して乾杯。
マイミクになったからまた会おう。新幹線の時間が近づいて、ダッシュで駅へ。


日本中からいろんな人が、いろんなきっかけで、いろんな気持ちを抱いて集まって来る。来て良かった。

僕ら一行は仙台最後の夜を過ごす宿へ。今日はホテルがとれたのでゆっくり休めそうだ。

2011年7月5日火曜日

宮城初日後編 女川 雄勝 名前も知らない町


6月の終わり、女川町や気仙沼で漁業再開のニュースがあった。びっくりだ。あんなまだ、横倒しのマンションがそのまま横たわったりしている町なのに。
もちろんまだ、ごく一部の漁しか行えてはいないんだろう。でもすこしずつ、その土地の、そこにいる人々の誇りであるはずの活動が、営みが、取り戻されてゆくということは、なんて明るいニュースだろう。ペラペラの、カラフルなだけのライトではなく、そっと大切に静かにくべられたともし火のような、灯り。

しかし僕はふと考えて、躊躇してしまう。希望を見出し気持ちを明るくするタイミングを。
だって、失って、取り戻せていないものはまだあまりにも多い。倒壊したままの家々、町ごと無くなった町、そして、人。心は、希望と絶望のどっちに寄っているだろうか。笑顔と涙の、どちらに近いか。
テレビは、番組の起承転結として、あるいは公共性や視聴者の多様性を考慮して、明るい気持ちにさせて終わりにするものが多い気がする。もちろんむやみに気持ちを沈ませても益がないかもしれない。だけど、視聴者の気分を楽にさせて、楽観的な情報を広く提供して良いタイミングだろうか今は。

希望の芽は吹き始める。けれどまだ黎明のようなほの暗さの中でだ。




僕達は、石巻から女川方面へ。
高台にある病院の駐車場から町を、町だった所を眺める。重機や大型トラック、自衛隊の車が行き交う。
それから三陸リアス式海岸沿いの曲がりくねった路。ぎざぎざの陸沿い、入り江ごとに小さな町が点在している。そのひとつひとつが、壊滅だ‥。きっと交通の便も悪くて復興作業も難航してるんだろう。










雄勝っていう町、知ってますか?申し訳ないことに僕は聞いた事もなく訪れて初めて知りました。甚大な被害を受けた、三陸海岸沿いの町のひとつ。建物の屋上に、バスがのってる。町ごと無くなった、という印象だ。
この町を先日、テレビ番組が取り上げていた。見たことのある景色。あのバスもそのまま。
ニュースでは、この町の漁業復活のために尽力する人々を描いていた。ボランティアダイバーが海底に沈んだ漁船を見つけ出し引き上げている!すごい!ダイバーたちは他に、海に引きずり込まれて沈んだ家々から、思い出の品などを見つけてくる。すごいなぁ。ダイビングができたら。重機が運転できたら。もっと人の役に立てるのに‥。


 







車は雄勝を過ぎ、通行止めになった橋を迂回して南三陸方面へ。
途中、そういえばもう夕方なのに昼食をとってないことを思い出す。コンビニでおにぎりを買って、時計を気にしながら南三陸へ。実は今日の宿がまだ取れてないので、仙台に戻ったらカプセルホテルを探さなきゃいけないのだ。主要駅付近の宿泊施設は、復興作業関連企業の人たちで一杯らしい。

気仙沼まではいけないけど、せめて南三陸町はと、車を飛ばす。

閉鎖された病院。巨大な蠅。これから気温が高くなるにしたがって、衛生環境は劣悪になっていくんだろう。山のような、ではなくまさに山の、瓦礫。先日訪れた福島の集積所と違い、分別なんてまったくできてない。これからやっていくんだろうか。人の手で。



帰路につく。




仙台駅付近へ。賑やかな繁華街。元気なお土産屋。大勢の人々が行きかう新幹線乗り場。空きのないホテル‥。まあ今日はくたくたに疲れたから、カプセルとかサウナでもよく寝れるだろう。

せっかくなので、牛タンを食べよう。駅前商店街に見つけた、地下の牛タン屋さん。僕らを一目見て、ボランティアだと解かったみたい。
「今さっきも大きい余震あったね~。カバンこっちおいていいよ!」と店のおじさん。座敷席に案内してくれた。


靴を脱ぐ。底に、被災地のドロがついた靴を。






2011年7月2日土曜日

沖縄終戦 仙台 ドロの地平 海の砂

6月23日。奇しくも沖縄戦終結の日。66年前の今日、沖縄での戦闘の敗北が決まり連合軍による占領が始まった。大田実少将の訣別電報、「沖縄県民かく戦えり 県民に対し後世特別の御高配を賜らん事を」にあるように沖縄の方々はその未曾有の国難に身を捨てて貢献した。そして悲劇の第2章が、この日始まった。
東日本大震災。戦後最大級の災害。僕はこれを”国難”だととらえる。トウホクの人が大変、ではなく。国難は国民で共有しなければならない。この僕にもその権利がある。義務の前に、権利が。
国家の受難を共有する権利が私にもある、とあえて危険な作戦を提案した真珠湾攻撃参戦の海軍将校の言葉を拝借して。


早朝、一番のバスで仙台へ向かう車中、携帯の地震警報が鳴る。にわかに漂う緊張。ここ数日の強雨に加え強い揺れか。

午前9時過ぎ、仙台駅に到着。仙台ってすごい都会なんですね‥。そしてこの街もとても平静だ。
何事もなかったようだ。朝の通勤ラッシュ、立ち並ぶ高層ビル。にぎやかな繁華街。

今日の予定はまずホテルの確保、ボランティアセンターの所在確認と、それからレンタカーを借りて被災地を巡る。
仙台駅からまずは大曲、石巻へ。どんよりした空の下、点々とそして徐々に増えていく倒壊した建物。

大曲。初めて目にする、広範囲に津波にのまれた街。曇天のせいだろうか、こんなにも、絶望的に見えるのは、、。どす黒い汚泥にまみれた倒壊家屋。えぐられて沼のようになったくぼみ。川縁から陸に乗り上げた漁船。海まで続く恐ろしいどろの地平。車窓を開けると嗅いだことのない悪臭が鼻をつく。時々見られる、黙々と作業をする重機。素人のボランティア行作業員が手を出せる次元じゃない。
こんな場所に、希望が芽吹くのをは、いつになるんだろうか。他所から来た人間の思いやりとか貢献は、あの汚泥をぬぐえるのか。

ああ、、。




それから石巻。テレビでよく報道される超広範囲被災地のひとつだ。日和山の高台から港湾までの広い市街地を望む。
適切な表現が思い浮かばない。供えられた花々の前に手を合わす。



海の砂は 手のひら何杯分 

何杯すくえば すくいつくせる

ざらざら どろろん  ざくざく どろろ

海よ海よ 

ざらざら どろろ




2011年7月1日金曜日

ふたつの現場 家族 四ツ倉のガソリン臭

夏至。一年で最も昼の長い日。僕達にとってもまぎれもなく長い一日になった。
今日も朝からボランティアセンターへ。ホテルの目の前にあったほか弁で朝ごはんと昼ごはんを買って。
もう慣れた感じで登録を済まし、マッチングを待つ。昨日知り合った、作業を一緒に行ったKさんもいる。彼は原発関連の仕事をしていたらしく、いわゆる20km圏内にある自宅から避難所に移り住みそこからこうしてボランティアセンターに通っている。
被災者にも、ボランティアスタッフにも、いろいろ境遇のひとがいるんだろう。当然いろいろな思いを抱えて。
今日の現場は、一人暮らしの60代男性宅。乱れた部屋内のかたづけだそうだ。大きな揺れで散乱してしまった家具や生活用品。一人では運べないものや、なかなか活動的になれない、震災による心境もあるんだろう。とはいえ男数人にとっては軽作業で終わりそうだ。

と、思って現場を訪れたが事態は意外な方向へ。意外。そして震災後の被災地が内包するリアル、震災後生活のディテールを目の当たりにした。
このお宅、地震で散らかったのではなく、もともとかたづけが出来てなかったんじゃないか‥?
スタッフ一同に「‥?」がよぎる。どれをどう片付ければよいかたずねると、、就職や結婚で出ていった息子娘ので、どれも捨てられない、うまく整理して欲しい、とのこと。
とりあえず手を動かし始めてみるものの、、やはりこれは、震災ボランティア対象外なんじゃないか‥?
ひとまずセンターへ電話をし、事情と率直な感想をお話する。

スタッフ間と、センターとのしばらくの話し合いの結果、やはりこの現場はやんわりおことわりすることになった。

被害の大小を区別するわけじゃない。自分のやりがいを優先する気ももちろんない。だけど、できるなら差し迫って助けを求めている方のところへこそ、お手伝いにいきたい。行政は効果的なコーディネートをすべきだし、そもそも”震災ボランティア”に相応しい依頼内容か精査すべきだ。
穿った考え方をすれば、援助依頼をむげに断られたとクレームがつくのを恐れて安易に引き受けすぎてる”お役所”的な体質があるんじゃなか、そんなことも頭をよぎる。

息子さんがたはどうされてるんですか、そもそもご無事なのかとうかがうと、県内に住んでいて無事の確認はとれた。でもどこにいるか正確には知らず、言葉は悪いが絶縁状態のようだ‥。
奥様は、、以前に亡くなっている。部屋に散らかっている物の中に女性の着物がたくさん
あった。積み残された雑誌類、子供の遊具はお孫さんのだろうか。でもずいぶん埃をかぶっている。ベッドの上にちらかったままの衣類。その上に倒れた、おそらく去年からそのままの扇風機。
持ち主は家を出たのに、捨てるなとだけ言われて置き去りになっている生活用品たち。

おかしくないか?あんまりじゃないか。国が、地域が、人々が、家族が、一つにならなきゃいけない時に。
そしてきっと似たようなことが、たくさんあるんだろう。震災をきっかけに深まった絆がある。けれど、あいたままの溝もあるのか。まだいたるところに見受けられる道路の亀裂のように。

センターから直接、巧く話をつけてもらい依頼者宅をあとに。僕が口を挟むことじゃないですけど、息子さんと、連絡取ってくださいね。そう言って失礼する。

気持ちの置き場が見つからないまま、ひとまずお昼食に。そして他の現場へ応援合流することに。
次の現場は四ツ倉という地域。沿岸部で、典型的な津波の被害があった住宅地だ。
すでに午前中から20人以上のスタッフが、道路わき、側溝の泥かきをしている。

このあたりもしかし、被災地全体と比べれば比較的復興作業が進んでいるようで、路面はしっかり見えてるし取り壊した家跡の多くはきれいにならされ、地元の方々の往来も多い。しかし、ガソリンの臭いがあたりにたちこめている、、。破壊された船や車から漏れたのだろうか‥?

こちらの現場リーダーはいかにも土木関係現場仕事的なゴツイおっちゃんだ。ポジティブな大声で全体を盛り上げていた。僕達の士気もあがる。
側溝のコンクリートブロックの蓋を2~3人がかりで持ち上げ、スコップで汚泥をかき出す。この泥からガソリンの臭いがしている。そして泥の中からは、大きな石やガラス、食器、時には写真、カード類などが出てくる。
保管可能なものや、鋭利な危険物を取り除き泥を土嚢に詰めトラックに載せる。現場を選ぶつもりはないと書いたけれど、やはりこういうやつだ求めていたのは。まさに復興ボランティアって感じの作業だ。安全長靴も軍手も防塵マスクもこのためにある。健康な肉体と与えられた機会に感謝する。

休憩中、この近所にお住まいだったご老人が通りがかり話しかけてくれた。海に一番近い、堤防沿いの自宅を、今日取り壊すことになったので最期に見に来たそうだ。大規模半壊になり、取り壊される我が家の最後の日。
地震の時部屋内にいたが、たまたま仕事が休みで家に来ていた息子さんの迅速な判断と誘導で、津波が来る前に避難できたそうだ。方言なのとご高齢なのとで聞き取れない部分が少々あったが(笑)、だいたいそういうことらしい。くったくのない、笑顔でお話ししてくれた。
こうして助かった命と、こうは助からなかった命が、たくさんあったんだろう。

父を助けた息子と、連絡のない家族。



15時過ぎ、作業を終了しセンターへ戻る。作業報告として市ボランティア職員に話さなければいけないことがある。話さずにはおけない現場実態と、感情とが、だ。