2011年10月24日月曜日

スコップ団に参加したこと 後編 山下小学校の復興祭り

初めて東北に復興のお手伝いに訪れたのは、遅れ馳せながら6月でした。福島県いわき市に3泊、宮城県仙台市に3泊。ひょんなことから訪れる機会を得た初回だったけど、その後は行く度にいろいろな想いが重なっていきました。はじめは、うまいこと現地で人脈を作って、歌を歌ったり踊りを披露して人を励ましたり出来たらいいなとか考えていました。だけど甘かった。考えが全然甘い馬鹿者だった。


子供のころから、人がしないことを、人が真似出来ないようなことをやってやろうという功名心むき出しの子でした。そしていつも、自分の心が本当に求めていることだけをしたい、よどみなく己の道を歩みたい、燃えカスの残らないような温度で、いつも火のようでありたい、そういう生き方に憧れてきました。そして叶うなら、死に様を自分で選べるような人生でありたいと思ってきました。

なぜこんなことを書くかというと、スコップ団のことを書きたいからです。彼らは震災当初から、大変な悲しみと困難の中、休みなくよどみなく、時に多額の私財を投げて、被災地の方々のために戦い続けてきました。今もです。
団長殿のブログを読むといつも、胸が熱くなります。そして、不敬で不謹慎かも知れませんが、ちょっと悔しくなります。それはあんなにも全力で誰かのために戦っている姿が、うらやましいからです。恥を忍んでそれは素直に認めようと思う。あんな風に自分の全力を注ぎたい、誰かを助けるために、笑顔にするために、自分の全部を燃やしてみたい。

自分は売れてないミュージシャンです。まだ自分のことで精一杯の。早く売れて社会的影響力や経済力があれば、もっと誰かの役に立てたのにと、悔しく思っている。せめて可能な限り被災地を訪れお手伝いをし、東京に帰ったら大勢の人に東北のことを伝えたいと努めています。でも、なかなかうまくはいかない。思いのほか人は関心をもってくれない。トウキョウではもう、ちょっと前のできごとのように、過去の履歴になりつつあるみたい。微力ゆえ、人々の関心をつなぎ止めておくことが出来ずにいることが、本当に申し訳ない。



さて独白のような前置きが長くなりましたが、、この日は一日で4件の現場をこなしたスコップ団。しつこいようですが詳細な作業の様子は団長ブログを。http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/d/20110920

作業は薄暗くなるまで行われた。最後のお宅では床下の泥カキに苦戦。構造上、大掛かりに床板を壊さないと全部は掻き出せない。床下に這いつくばってケルヒャーを握る団長の姿に胸が熱くなる。俺もちょっとは真似しよう。床下にもぐって最後は手で泥を掬う。

家主さんの、「もう十分です。こんなにやって頂けたなら…」という言葉で終了することに。

ペットボトルの水で目や鼻に入った泥を洗う。手袋に穴があいちった。
少しは役に立てたかな。




仙台まで帰らなきゃいけないうちらは、ヨコシンさんという初期からの本隊メンバーの方の車に乗せて頂いた。ほんで急きょ、山下小学校で行われてる復興祭りに寄ってもいいかなとおっしゃるので、一緒に連れてって頂きました。



夜の校庭での秋祭り。カレーとかかき氷とかがあって、子供たちがお手伝い。たくさんのキャンドルが飾られて、バンドのライブ演奏も。


参加料を払うとチケット代わりにピンクのガムテをくれる。それを肩とかに貼れば場内食べ放題。っていってもうちらが行った時にはもうだいぶなくなってて、でもカレーのルーとソーセージの焼いたやつ、あとかき氷をもらった!
すごくおいしかったよ。本当に。牛タンとかさ、東北宿泊中いろいろ食べたけど、今日のが一番おいしかった。おいしくて、少し泣いた。おなかすいてたからかな。






ブルーハワイ。













どさくさに紛れてスコップ団本隊の皆さんとパチリ。貴重なお写真。ヨコシンさん本当にありがとうございました。

また必ずお手伝いに来ます。

2011年10月23日日曜日

9月18日のこと 前編 スコップ団に参加 

仙台。

国分町のカプセルホテルに宿泊し、今日はスコップ団に参加するため早朝から山下駅へ向かう。常磐線が運行している亘理まで行き、運休中のその先へはバスで。山元町役場前へ。そこでスコップ団にピックアップしてもらう。ようするに車で迎えに来てもらう。ありがとうございます。

また参加出来て、本当にうれしい。団長や知人、前回お会いした方々にあいさつをし、テンションもますますあがってきた。
さて今日の現場は,
山元町のおうち数件の泥カキ片づけ草刈清掃。9月後半とはいえまだまだ暑い。ペース配分にも気をつけつつ全力でやるぜっ。


作業中はもちろん写真は撮れないので、活動の様子はだんちょー殿のブログからぜひご覧ください。http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/d/20110920
またしてもちろっと写ってますぞ俺。


休憩中に…
 復興が少しづつ進んでいろいろなシステムが正常になるに連れ、廃棄物の分別が細かくなる。木材、樹、紙類、コンクリ、ガラス、陶器…、今は20種類くらいに別れてるみたい。大変だけど復興が進んだ証か。




濡れた畳は重い。

ひと夏で草は驚くはど伸びる。

エアコンの室外機は壊すとなんかのガスが出てきてちょっとビビるけど心配ないみたい。

大勢で力を合わせるとすごいことが出来る。


覚えておこう。東京が大災害に見舞われた時のためにも。



スコップ団のトラック。機材運搬はもちろん、現場移動の際はみんなで荷台に乗ったりもする。おほっ。












まとにかく僕のブログよりもだんちょーのブログを見て下さい。http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/



参加出来たことを、生涯誇りに思う。

2011年10月21日金曜日

2011年遠野祭り 祈り 賑わい 





さて…、9月17日(土)。この日は遠野でお祭りがあります。「遠野まつり」です。前回遠野を訪れた時、駅前の呑み屋「Den」のかたにすすめられ、今日はお休みさせてもらってお祭り見物。
今年は震災の影響で開催も危ぶまれまた観光客もやや少ない中、決行された豊穣と安寧、そしてもちろん復興への祈りを込めたお祭りです。こういうのに参加するのもまた復興支援かと。

午前中に到着した友人と合流し、実は昨日の現場で、お手伝いしたおうちのお母さんがくれた缶ビールを宿で冷やしといた!一本は宿の人にあげて、あとはうちらで。そいつを頂きながら…



オープニングを飾る太鼓
 通りの向こうからなにやらいろいろやって来ました…。




盛り上がってきてビールも2本目。



東北名物 鹿踊り

にーん。



勇ましくも美し



ご立派。





観光客に囲まれて… ナイススマイル頂きました。




…。



ひととき、被災の悲惨さを忘れさせてくれた賑わい。

実り多き秋を、

国の安寧を、

東北の復興を、

悲しみを乗り越えて、人々の幸せを、

心から祈ります。

祈る、ということのせつなさを、尊さを、こんなにも思った年はない。


そろそろさよなら遠野。夕方のバスで仙台へ向かう。


明日は「スコップ団」に参加する。



おい、見ておれ。この国は美しくて強いぞ。





2011年10月18日火曜日

石巻日日新聞のこと 

余談ですが、、

実は石巻日日新聞社に記者として勤めている友人がいまして、そんなこととは知らずにいましたが先日テレビ番組「情熱大陸」でとりあげられていたのを知り、疎遠になっていたのでメアドなどはわからず、新聞社に手紙を書かせて頂きました。そしたらすぐに返事をくれ、本人も九死に一生を得る体験をしながらもその後大変な状況の中、奮闘しているとのことでした。被災地を訪れた有名な芸能人と撮った写真を添付してくれ元気な様子でした。

一人が出来ることなんてたかが知れてる。ひとつの団体であっても、出来ることは限られる。だから人はもっともっと繋がったほうがいい。たくさんの情報、複数の角度、様々な状況、いろいろなアイデアとめいめいの気持ち。想い。”世界を変えることはできなくても、誰かの人生を変えることはできる”かも知れない。

石巻日日新聞に関するニュース。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1107/28/news002.html

http://news.walkerplus.com/2011/0907/5/



11月にはまたスコップ団に参加します。http://blog.goo.ne.jp/cheapdust

2011年10月14日金曜日

釜石市鵜住居でのこと 大きな石 黄色い帽子 津波の光景

9月16日の後半。
一件目のお宅で昼ご飯をすっかり御馳走になり一行はいったんセンターへ。スコップとネコを借りて次の現場へ急ぐ。釜石市鵜住居の、国道からちょっとわきに入った住宅街。朝から一人で庭の片づけをしていたお母さん。大変お待たせしました。
こちらのお宅も海からは結構離れている。でも住宅の二階まで完全に浸水した。作業は、もうおうちをいったん取り壊して立て直すので、そのために敷地内を整理しておくとのこと。でっかい岩を取り除く。ネコに乗せても危ないくらい重いので結局リアカーに4人がかりで乗せる。リアカーも悲鳴をあげてます。

こちらのお母さんは町の保育園で保母さんをしているそうです。震災当日も、保育園にいた。実はその保育園では常日ごろから避難訓練を行っていて、そこまでする必要あるの~?と言う人もある中、国道の坂を上った、津波が来ないような高台まで列を作って歩いていく訓練を毎月行っていたそうです。黄色い帽子を被って手をつないで、先生のあとについていく。その訓練の成果が、多くの園児だけでなく、近隣の小中学生の命も救ったそうです。


家主さんに許可を頂いて撮影致しました

と言うのは、大きな揺れがあったあと、電気が止まり情報が途切れ、人々はどうするべきか混乱状態になった。小学校や中学校では、校庭に避難したり屋上に集まったり。おそらく大津波を予見していなかった。
ところが、黄色い帽子が列を成して国道の坂道を登っていく。小中学校の先生はそれを見て、坂の上に逃げることにした。すでに後ろから迫る大津波。列の後ろのほうの生徒は、町や車や人が波にのまれていくのを目撃し、悲鳴をあげたり、恐怖のあまり足がすくんで歩けなくなったりした子もいたそうです。
それでも、国道の上へ逃げた生徒は全員無事だったそうで、逆に、揺れのあとすぐに親御さんが迎えに来て自宅へ帰った子供たちの中に、犠牲になった子がいたそうです…。


そのころ旦那さんはというと、こちらの自宅いらしたそうですが、津波が来て二階へ避難。二階も危ういと感じベランダに箪笥を出しそこから屋根によじ登り、難を逃れたそうです。すごい冷静な判断!

津波が押し寄せてくる直前、マンホールから下水が噴水のように吹き上がりついにはふたが跳ね上がった、と思ったら国道向こうの大型量販店の建物を飛び越えるように水が、まるでスカートのようにひらひら波打って覆いかぶさってきたそう。すさまじい光景だ…。

被災地の方からお話を聞くとき、おそらくはご家族が皆さんご無事だった方に限られるとは思うんですが、、ご自分の体験談を意外とあっけらかんとした口調でお話しして下さるんですよね…。命が助かった安堵のお気持ちとか、もう人に話して笑い飛ばしてしまいたいお気持ちとか、いろいろおありなんじゃないかと思います。ただこっちはどんな顔をして聞いてればいいのか戸惑いますが…(苦笑)

頂いたりんごをかじりながら、どんなに寒い思いをしたか、着るものを拾い集めて川で洗い焚き火で乾かしたとか、よその家の風呂釜がうちの玄関に居座っていたとか、お父さんは下着を何週間も替えられずボヤいていたとか、、山のふもとの杉の樹はみんな塩でダメになりそれであんなに茶色くなってるんだよとか、
すぐそこにすんでいた足の不自由なお母さんをその息子さんが背負って国道を駆け上がろうとしたけど寸でのとこで、助からなかったとか、あそこのあたりは波打ち際のように家も車も、人も打ち寄せられていたとか…

今日ここに来なければ聞けなかった話。テレビの中やネットで得た情報ではなく、まして映画や小説のお話ではなく、本当の、人間の、生と死の話。

僕は一生忘れないと思う。いや忘れてはいけない。東北で見聞きしたことのひとつひとつを、最大限のアンテナを張り巡らせて、理性的な想像力を駆使して。決して忘れないでいよう。そうでなきゃボランティアなんて観光と一緒だ。


被災して家を破壊された方の多くは、自宅を訪れることがなかなか出来ないそうです。無残な姿になった我が家を、ぐしゃぐしゃになった、かつて一番安らげる場所だった我が家を見ることが辛くて。だから片づけとか、リフォームするとか、またこの土地に住むか知らない場所へ移り住むかとか、そんな重大な決断ができるような状態じゃない方々が多いそうです。

今日また行った活動が、そんな方の背中を押してあげられるようなものであったらと思っています。
見ず知らずのお互いだったけれど今日こうして出会えてお手伝いが出来て、そしてお互いの人生を一歩前に進めることができたなら。


一期一会。


おばさん笑ってたな。東京で地震があったら助けに来てくださいって言っといた。そうだ東京で同じことが起きたらこの体験と見聞をいかせるかな。





一緒に活動したチーム。

 

2011年10月3日月曜日

釜石BC 二つの現場ふたつの家族 前編 

9月16日のこと。内容が濃くなりそうなので2編に分けようと思います。


この日は朝一で釜石へ。遠野から釜石線で1時間ほど。釜石市ボランティアセンターで活動することに。
早朝の電車にはこのあたりの学校へ通う子達が乗り降りする。なんかこないだもみたようなコが…、ってあたりまえだよな考えてみたら。この電車に乗らなきゃ次のじゃ完全に遅刻するからな。2時間近く間あきますYo。



センターの集合時間は8時半。それまで少し時間があるので、町中を歩くことに。




1か月前にも来たけど、、取り壊されてなくなった建物がいくつかあるようだけど、そのまま変わりないところが多い…。港から道路まで乗り上げた大きな船もそのままだ。ぐしゃぐしゃになったままの家屋。呑み屋。

…。

被災地ド真ん中のローソンでパンと水を買う。パンも水も、お金を出せばふつーに買えるって、ありがたいですね。

そろそろボランティアセンターへ。遠野に比べると、本当に集まる人数が少ない…。なんか、、切なくなった。
でも大丈夫だぜ。俺は人一倍働くしハートも強い。一応スコップ団のはしくれだし、誰よりもこの国を愛してる。来たこともない町の見ず知らずの誰かのために、今日一日を燃やし尽くすつもりでトウキョウから来たんだ。

さて今日の現場は!  
釜石市鵜住居。まずは仮住まいだったアパートから、リフォームしたおうちへの引っ越しの手伝い。おうちは海から5キロも離れていたのに2階天井付近まで津波がきたそう。周りは完全に破壊された家も多かったけれど、奇跡的に一階部の損傷だけでまぬがれた。ご家族もみなさん無事だった。
洗濯機とか冷蔵庫など重いものを中心にトラックに乗せ、元のお住まいへ。

更地になって夏草が生い茂った住宅跡地や、不自然にひしゃげたままのガードレール、工事中の家が点々とある界隈に立て直したおうち。新築みたい。
ちょっとした地形や周りの建物との位置関係で、強い波の流れや大きな漂流物の衝突を、免れたり免れなかったりするんだ。このお宅は一階部の損傷だけで、柱や骨組みは無事だったからリフォーム出来た。でもすぐ隣の家々は…、、だからご近所には申し訳ない気持ちも強く抱いているそうです。うちだけ無事でごめんね、、いつもそう言ってたんだって、、。

敷地内には大破したピアノも置かれていた。正確にはピアノのパーツ。ピアノ線とその枠組み。錆びてる。大事にしていたグランドピアノ。

小さな男の子がいて、ちょっとビビりながらも話しかけてくれた。
この子をお母さんが抱えて、一家でトラックの荷台のちょっと高くなってるヘリ、わずか2mたらずのところに登って、それでも足元にまでくる海水に怯えながら11日の夜を過ごした。
トラックはだめになったけど命の恩人だよ、と在りし日の写真をみせてくれた。バンパーもとっておいてある。
車とか楽器とか、大切なもの使い馴染んだものが損なわれる、というのは本当に悲しいことだ。移動中に目にする無数の瓦礫は、全部誰かの、大切な馴染みのもの。「ガレキ撤去」って言葉に抵抗をおぼえる…。


それから!なにもないけど食事してって~っと、カップラーメンと野菜炒め、炊き立てのごはんと自家製のつけものを出してくれた!おかまいなくと言ったんだけど、何かしないと申し訳ないからとおっしゃるので遠慮なく頂くことに。
ありがたい。
ごはんもだけど、こんなに感謝して、気持ちを明るくしてくれるなんて。感謝される立場なのかも知れないけれど、こちらが感謝でいっぱいだ。なんでだろう。
生きていて、また笑ってくれて、ありがとう。今日初めてお会いしたけれど、やっぱり同じ人間だから分かるんだな、今まで生きてきたそしてこれから生きていく、その尊さが。

貴重なお話もたくさん聞かせてくれた。


…。

さてそろそろ次の現場行かなきゃ。丁重にお礼を言って、さよならする。これからまだまだ大変なことがたくさんあるんだろう。近所の人はほとんどいなくなったし買い物も不自由だ。街灯や信号は回復したんだろうか。それでも、前を向いて新しい生活を送るためのお手伝いを、ほんのちょっとでもできたなら、本当に嬉しい。

ところで、今日のもう一件の現場は、被災して散らかった庭の、ちょっとした岩をかたずけるって話だった。だけど行ってみたら、、すんげーデカい岩…。素手じゃ無理。ネコ使っても危ない。これじゃ必要な機材変わってくるじゃん!それで一回センターに戻ることになった。車で片道15~20分。必要な道具積み直して往復1時間…!すげー時間の無駄!!こういうとこなんだよな、ボランティアセンターでよくある不手際。完全に依頼内容確認の不備とか伝達ミスじゃん!

あとでキレたろ…。